日々徒然 2018年11月22日 真理 『ああ、そうか、解った。』と、急にひらめくことがある。 そのひらめきを得られるときは、美術や景色などが放つ、一瞬の内の美しさに出会ったときに限られていて、 とりわけ景色である場合が多い。 しかし、不思議なことに何が解ったのか、何がひらめいたのか、全くわからないのである。 おそらくではあるが、多分にそれは、『真理』を見たのではないかと思う。 何がひらめいたのか解らないというのも『真理』とは、『言葉』を超越した存在であり、 そうであるが故に、頭の中では、カタルシスのような感覚を得つつも、言葉で形にすることが出来ずに消えていってしまうからではないかと思うのである。 そうであるならば、真理とは、人間の情緒の中に存在するもので、その真理を理解するために、 多くの哲学者や宗教者は苦心しており、 また、真理を表現しようと、多くの美術家や音楽家は苦悩しているのかもしれない。 何とも、それらの人が、随分と遠回りなことをしているなとも思えるが、 同時に、哲学や宗教、また、音楽や美術などを理解しようとしない人は、自ずと真理から遠ざかっているような気もする。 もう一度出会いたいと思っていても、真理へ至るには、道はあれど近道はなく、目的地はあれど方向の解らぬ終わりのない旅路のようなものではないかと思う。 結局、哲学的にならざるを得ないのかと苦笑する。 理解しようとすればするほど『ああ、そうか、解った』というあの一瞬の簡潔さに比べて、 言葉で考えて再び凝り固まってしまうのである。 トータルリフォーム環総合 Tweet
日々徒然 2018年11月19日 香気 最近、後輩と議論になったことがある。 というのも、その後輩が最近政治に触れる機会が多いらしい。 その後輩曰く、戦争はなくならないそうであり、貧困や格差は解消されないらしい。 その悲痛な意見を、自分の中に結論として持っている様で、それはいかががなものであろうかと口論になった始末なのである。 私が思うに戦争や格差、または貧困のないユートピアを思い抱くことは、とても大事であり、 たとえ、そのユートピアが一代で叶わなくても、それはそれで本望であり、次の代へ引き継いで行けばいいだけの話である。 個人に置き換えても同じだと思う。 理想や夢を抱いて生きるから、嫌なことにも立ち向かうことができるし、道徳と共に生きることができるのだと思う。 いわば理想や夢、または、ユートピアは指針なのである。 最近、昔に読んだ本を、パラパラとめくっていると、司馬さんの一文にしっくり来るものがあった。 『認識は、わけ知りを作るだけである。わけ知りには、志がない。 志がないところに、社会の前進はないのである。 志というものは、現実からわずかばかり宙に浮くだけに、 花がそうであるように、香気がある。(引用:菜の花の沖)』と言うもので、 人の世にしても野原にしても、これが自然の摂理なのではないだろうかと思った。 それにしても議論というものには勝ち負けが付随しているのか、終わったあとも後味の悪いものである。 トータルリフォーム環総合 Tweet